『 真夜中の繰り言 』













 
薬品のにおいが鼻について目を醒ます。
ゆっくり左手を動かせば一瞬のとがった痛み。
その後やんわりとした熱がこみ上げて思わず大きく息をついた。
気だるげに瞼を上げればそこには白い天井がある。
それは自分の部屋のものではないが、もういい加減見慣れたものだった。
ふと気になって見てみた左手首は腕に達するほど大そうに包帯が巻かれていて
そこを労るようによく知った手が触れていた。
骨格ばった健康的な浅黒い手は自分の生白い手とは違い確実な温もりと自信が
反映されているかの様で、それに底知れぬ安心感を抱く。

この手の主である勇我は寝ているようでさっきからピクリとも動かない。
この男の寝つきのよさは出会った頃から変わらないようだ。
そう思いつつもいくらか揺さぶってみたが、やはり効き目はなく、
もちろん握られたままの互いの手も離れることが出来ないでいた。
手を握り返して、開け放たれた窓をみる。
今何時なのかは時計が無くてわからないが、大きな月が爛々と輝いているのを見ると
真夜中であることはわかった。






いったい気を失ってからどのくらい経ったのか。


一行が自室で手首を切ったのはまだ空が明るい夕方の事だ。
その行動はもう何度目かわからないほどに繰り返されているのだが、
一行は死にたくてそうしているわけではなかった。
それはいわば衝動であったり、恐怖であったり、そして確認のようなもの。
それを人に理解してもらおうと思った事はない。むしろ自分でもよく分からなかった。
ただ、自由に生きていられる今に感謝する反面、眠るように、死んだように日々を繰り返していた
過去を思い返しては意識を別の「何か」に奪われてしまうのだ。
そしていつも気付けばこの天井を見上げている。

もしかしたら自分には死神が憑いているのかも知れない。
まるで他人事のようにそう思いながら、一行は緩やかな眠気に目を閉じた。











 
 
その数分後、勇我が寝ぼけて焦点の定まらない目を擦りながらのろのろと起きる。
一行はそれを気配で察知したが、出血多量のための貧血で思うように思考も身体も動かない。
それに面倒くささを感じて寝たふりを続けた。
勇我はずっと此処に居るだろう、という予感があった。
予想通り彼はそこから動くことは無かった。が、五分に一度のペースで
心底思い悩んだようなため息が静かな室内に響く。
普段の彼からは想像もつかないため息の多さに思わず瞼を押し上げた。


「・・・・あ」


バッチリ視線が合って本日何度目かわからないため息を吐こうとした彼の唇口は
間抜けな母音に変換され二人の間の空気を響かせた。
しばらくの沈黙、の後。


「おはよう」


一行が短くあいさつをすれば面食らって、そしてスグに表情を曇らせる。
俗にガン飛ばし。ともいう。
勇我は顔を隠すように俯き、再び盛大なため息を吐いてボソボソ話し始めた。


「――今度こそ死んだんちゃうか思って全身血の気が引いたわ・・。
 お前が暗い部屋ですっころがっとるからつまずいてこけるわ、
 血でドロドロなりながらお前担いでバイク走らせたったんやで・・
 すごい見られて恥ずかしかったんやでな。
 退院したらぜっったい奢れよ。一日中引きずりまわしたんねん」

「ありがと。そだな。がっちって甘党だからな。お菓子買い食いの旅でもする?」

「・・・・・ぅ」


繋いだ手に力がこもって、下を向いたまま勇我は唇を噛んだ。
表情は厳しく、一行の左手を忌々しげに睨みつけながら何度か殺しきれない嗚咽が漏れる。
部屋には月の光が射し込み、反射して室内を静かに白く照らす。
きらりと光るものが勇我の目から零れたのに、一行は形容し難い気分になった。
それはいくらか昔に忘れてしまった自分の人間らしさのように懐かしい何かだ。
思わず勇我の髪に手を伸ばし柔らかく梳くように撫でる。


「隠さなくていいのに」

「あ・・ほかっお前も泣けや・・っ」


勇我は堪えきれなくなった涙をそのままに一行の肩口に目元を押し付けた。


「ちゃんと俺らがおるやんか!何、で・・・」


溢れてくる感情が言葉にならずに途切れる。
それ以上何も言わずに無遠慮に抱き締めてくる勇我を拒むことなく
一行はあやすように背中を何度も叩いてやった。
よくわからないけど、彼の涙と言葉に心臓を掴まれた気がした。
頭が痺れるように波打つ。指先が少しだけ震える。
いつにも増して勇我の存在が暖かい。そう思って、心臓が痛いほど波打った。

俺も泣けたら良かった。
そうして彼のやりきれない感情を受け止めてあげられたら良かった。

せめて、と勇我を真似てギュッと抱きしめ返す。
勇我の方が背が高いために、一行は目の前にある彼の胸に顔を押し付ける。
いつもよりも早い心音が心地よい。


「勇我・・いつかいっしょに泣こうな?」

「一人で泣け・・」

「やだ」

 
落ち着きを取り戻した勇我は赤く腫れた目を荒々しく擦って、ふっと笑った。


「お前そういうのは誘うもんちゃうっつーの」

「別にいいじゃん。ていうか誘わなくてもお前もらい泣きするだろ」

「せーへんわ!調子のんな阿呆!!」

「またまた意地張っちゃって。――照れ隠しはいいけど怪我人の首は締めないの」

「知るか!そんな無表情で言うな!大体人類はみな平等なんじゃ!!」

「それもそうだ」

「っておい、つっこまんかい・・痛い痛い噛むな噛むな!」

「だって苦しい」


うって変わって小さく呟く。

苦しい。
こうして軽口を叩き合っていても、やはり自分には笑顔になれるような感情が
芽生えてこないのだ。勇我のようにふと、笑えるような何かが無い。
とても苦しい。
そう思ったのは初めてだ。


「一行」


殊更柔らかく名を呼ばれる。
振り向いた途端、軽く口付けられた。
勇我は困った様に微笑んでいる。
それを見て、一行が口付けかえしながら言った。


「何?」

「お前今、苦しそうな顔してたで」

「・・・・・・え」








それは火星に来て、一行が初めて笑顔になる一年前の真夜中の事であった。
 
 
 









END


               一行さんは過去の壮絶な人生の過程において神経が削られまくった挙句 精神的防衛として一切の感受性を封印していたというお話。 今の一行さんが基本笑顔なのはその反動。